明日は美術館へ行く。
そう決めた前日から、なんだかソワソワするのがいつまでもやめられない。
美術館なんて普段の格好でいい、と思うのに、
朝起きるとあれでもないこれでもないと服を考えて、普段はしないきれいめな格好で、靴擦れするのが分かっているのにヒールを履いてしまう。
アクセサリーをつけて、きちんとして見えるように装って電車に乗っていそいそと出かける。
お淑やかに電車で小説を読み、美術館に行くイベントに相応しく備える。
すきな人とのデートでもないのに気合いを入れないと美術館に行けなくなったのはいつからだろう。
行動力が命だったわたしが美術館に行く頻度は年々下がっている。
行こうかな、と思ってはいてもいつのまにか展示が終わっていることもよくあるし、
スマホで毎日美術館の投稿を見ても、行動に移せなくなった。それを老い、と認めたくない。
昔は美術館が点在する地域に住んでいて、1か月に一度くらいの頻度で出かけていた。
なんの躊躇いもなく1800円を払い、絵や陶磁器や彫刻や家具や食器を見る。
その時のわたしにとっては、それはイベントでもなんでもなかった。
バイト終わりにTシャツにジーパンのまま、美術館に行っていた。
給料がさして高いわけでもなかったのに、その頃はアートに触れる時間が長かったし、
一度そういうラインに乗ると、アンテナが張られるのか次々と見たいものが出てきて、休みが足りないほどだと思っていた記憶がある。
街全体がアートのようなところに住んでいたから、毎週末アート関連のイベントがあり、
ギャラリー自体も開かれていたから、そういう敷居も低かったように思う。
とりあえず行きたいところへ、その日の気分で気軽に出かける。
閉館30分前に入って、見たいものだけ見て出るなんてザラだった。
今日の展示は〝アタリ〟だったな、とか
イマイチだったとか、美術的背景なんて何も考えず感じるままにアートを味わっていた。
15分で絵を見るのをやめて、喫茶室で2時間ダラダラしていたこともあるし、
好きな展示の前から1時間動かなかったこともある。
それが今のように、
軽く緊張してしまうようになったのは、
美術館へ行くことを大層なイベントとして考えるようになってしまったからなのだと思う。
美術館は遠い。
そこまでの片道1時間半の道のり、入場料1800円を億劫に思うようになった。
そしてなにより、きちんとする、ことが面倒だと感じてしまう。
行ってしまえば楽しいのは分かっているのに、そこまでのワクワクを生めなくなっている。
美術館に行くのがすき、
いろんなアートを見るのがすき、そう言うと美術好きの人たちに決まって聞かれるのが
「誰の、どの年代の作風がすきか?」ということだった。
はっきり言って、インスピレーションで見る展示を選んでいるわたしには、
すきな作家以外の作風や代表作を知らない。
すきな作家ですら、この作品はすきでない、というのが多数あるし、名前を覚えていないことも多い。
美術館で年表が書いてあるのを一応流し見はしてみても、歴史と照らし合わせて世界的に不遇の時代だったのだな、なんて思わない。
目の前にした絵が、とても好きな作品であれば深く読み込みはするけれど、
でも、わたしにとってそういった情報はあくまでも付加情報で、目の前の作品が全て。
すきか、きらいか、ずっと見ていたいか、自分の中に覚えていたいか、また絶対見たいのかそうでもないか、
ただそれだけなのだ。
美術フリークな人たちにとってはとんでもない見方なのかもしれない。
モネが好きだから交友関係のある誰それを見る、この時代の作風が好きだから今回の展覧会に行く、
自分はそうしているから、あなたは?
そう聞かれると、何も知らないわたしはアートを好きではない人間なのだなぁと思ってしまう。
最近は地域マルシェや野外マーケット、
個人のギャラリー、アートカフェなどで作品を見ることも多くなった。
たくさんある作品を手軽に手に取って見られる、近くで見られるそのチープさや、作り手との少し遠慮がちな会話がちょうどよかったりする。
よくあるギャラリーでの0がたくさんついた値札に慄きながら、話しかけないでくれと思いながら絵を見ることもない。
美術館特有の、静謐で、絵とひたすら向き合うあの白い部屋に、
その絵の背景の一部にならなければ、溶け込まなければと思ってしまうのが面倒で
美術館への足が遠のいていた。
それでも今日美術館に行こうと決めたのは、
視界がいっぱいになるような圧倒的な作品を見たいと思ったからで、
わたしは美術館の背景のひとつになりに行く。
すきな作品があるかどうか、目に焼き付けておきたいものがあるかはわからない。
何かに感動できる自分がまだ残っているのかどうかも。
それでもきちんとした自分で美術館の前に立つと、負けていない気になるから不思議だ。
今日はきっとすごく疲れるだろう。